「あー、これ、うまいわ」
そう口にしてみても、心の奥は不思議と静かなまま。感動ってほどじゃない。
大人になってから、「こんなの初めて!」と心が震える食体験って、めっきり減った気がする。

味覚が老化してるってこと?それ、ガチで切ないやつ。。
ほんとにそうかもしれない。子どもが初めてコーラを飲んだときの顔、今でもはっきり覚えてる。「なにこれ!?」と目を見開いて驚くあの顔、最近の自分には出せそうにない。

初めての炭酸は、みんなまるで毒が入ってきたみたいな顔するよね。笑
高級うなぎも、高級寿司も、うまいのは確か。でも、想像の範囲内なんだよな。「うまい」と「感動する」の間には、けっこう深い溝がある気がしてきた。
それでも、「あ、これは舌がびっくりしてるな」と思えた瞬間が、数は少ないけど確かにあったはずなんです。
今回は、「大人になってからの食の感動」について、自分なりの体験を振り返ってみたいと思います。あの感覚、もう一度味わいたいんだよなあ……。
うまいのに、心が動かない
子どもはコーラで目を輝かせるのに
ある日、次女が人生で初めてコーラを飲んだ瞬間。目を見開いて、「なにこれ!しゅわしゅわ!べぇー!」と叫びながら吐き出してた。

あの顔、たぶん一生忘れない。

美味しいとは違う顔だけどね

ポテチとかでも本当に幸せそうな笑顔で食べるのよ。
僕も昔は、この世の全ての幸せを噛みしめるような満面の笑みで、マグロの赤身のお寿司をひたすら頬張るような子どもだった。
ポテチとかファンタとか、「初めてのうまさ」にも心が踊った記憶がある。でも今はどうだろう。新しい味に出会っても、「へぇ、悪くないね」で終わっちゃう。
子どもたちはまだ、ひと口のうまさで世界が変わる。大人は、ちょっとやそっとの味じゃ心が動かない。

それ、ただ感受性が老化してるって話なんじゃ…
……否定できない。舌はまだ動くけど、心は動かない。そんな実感が、じわじわ増えてきた。
高級寿司も、うなぎも、驚きがない
わー子の誕生日に、ちょっと背伸びして高級寿司を食べに行った。もちろん、うまい。シャリの温度もネタの切り方も完璧だった。でも…驚きはなかった。

普段はくら寿司か、はま寿司のくせに

もちろんうまいんだよ。うまいんだけど…「想像の範囲内」なんだよね。
「こういう味なんだろうな」と思った通りの味が、そのまま出てくる感じ。
高級うなぎも同じ。ふわっとしててタレが絡んで、当然うまい。普通のうなぎとは段違いでうまい!
でも、「うわ、なにこれ!」みたいな感動がない。

多分衝撃度合いだと、初めてのスーパーのうなぎを食べた時を超えてないと思う。
味の完成度が高ければ高いほど、驚きは少なくなるのかもしれない。僕の舌が感動しにくくなったのは、年を取ったからだけじゃなく、味を知りすぎたからなのかもしれない。

味の期待値があがりすぎてるのかもね。
「味覚の衝撃」って、もう味わえないの?
大人になって感動した食べ物、衝撃を受けた食べ物を改めて思い返してみよう。
最後に感動したのはラーメン二郎だったかな?

「あ、これは初めての味だ」って、舌がビリッと反応したのを覚えてる。たしか20代後半の頃、同僚に誘われて初めて食べたラーメン二郎。

ビリッ!?電気でも走ったの?

いやほんと、それくらい衝撃だった。
背脂の塊、極太麺、スープの塩気と油分の暴力。「なんだこれは!?」っっていう混乱と、「うま…いのかこれ…?いや、うまいな…!」っていう葛藤が入り混じっていた。
正直、身体には悪そうだなと思った。でも、舌はハッキリ覚えてる。あれが、大人になってからの「初めての味」だったんだと思う。

二郎で味覚の衝撃って…。なんかもっと感動的なエピソードかと思ったのに。
たしかに、グルメ的には真逆かもしれない。でも僕にとっては、「想定外の味覚」って意味では、あれがダントツだった。
長岡生姜ラーメンも、舌が反応した
もうひとつ、これは…って思えたのが長岡生姜ラーメン。澄んだ醤油スープに、生姜の香りがガツンとくるあれ。

お、おぉ…こいつラーメンばっかだな
これは二郎と違って、優しい味なんだけど、それだけじゃない。「あ、こう来るか」っていう意外性があった。身体がすっと温まって、なんというか…味が内側から広がる感覚。
普通のラーメンじゃここまで印象に残らなかったと思う。ラーメンって、食べ慣れてるはずなのに、まだ「驚き」があるんだなって感じた出来事だった。
高級でも、珍味でもない。けど、「思ってたのと違った」が、良い方向に振れるときって、舌がちゃんと反応する。それが、大人になってもまだ残ってた数少ない「初めてのうまさ」だった。

味覚の衝撃って、たぶん「予想を裏切られる」体験なんだね。良い意味で。
新しい=感動、じゃないと気づいた
でもね、大人になってから初めて食べたものだったら他にもあるわけよ。だけど、それって衝撃とは違うんですよね。
ナマコやどじょうは「珍しい」だけだった
「これ、初めて食べたかも」っていう食材に出会うことは、大人になってからもそれなりにある。
例えば、ナマコ。ある日、義父との晩酌の席で「これはうまいぞ」とすすめられて、なんとなく口に運んだ。
たしかに、見た目も食感も独特。コリッというより、ヌメッとして、味は…うすら磯っぽい。食べたことないはずなんだけど、感動とはちょっと違う。
どじょうも似たような感じ。どじょう鍋も「初めて」って意味では面白い体験だったけど、「これはすごい!」とまではいかない。記憶には残るけど、舌は静かだった。

珍しい=おいしい、じゃないってことよね。
「こんなの初めて」は“期待”と“裏切り”の間にある
「初めての味=感動」と思い込んでた。でも実際は、ただの“未知なだけ”だと舌は動かないこともあるんだと気づいた。
思い返してみれば、「これはうまい!」と心が揺れた時って、たいてい“裏切られた”瞬間だった。
ラーメン二郎も、長岡生姜ラーメンも、「こんな味が来ると思ってなかった」っていう裏切りがあった。珍味は、見た目どおりの味が来て終わり。だから意外性がない。
初めての味を求めるんじゃなくて、「これはこうだろう」と思った自分の予想をいい意味で裏切ってくれるもの。それが、舌の記憶に残る。
まとめ 僕たちはまだ、“食べること”に感動できるのか?
最近、4歳の次女が納豆に初めてカラシを入れて「うっ…からっ!」って叫んだあと、ケラケラ笑っていた。

あの姿を見て、心の底からうらやましいと思った。

たしかに、私たちにはもう味わえない感覚かもね
やっぱり、“知っている”ということが、食の感動においては邪魔になることがある。
知ってる味が増えれば増えるほど、食べた後の想像ができちゃうんです。
でもね、そんな、新しい味に出会えない日々に寂しさを感じつつも、新しい店に入るときのワクワクは、今もちゃんと残っている。
どこかで「おおっ」と舌が反応する、そんな思わぬ味にまた出会えるかもしれない…。そう思って、新しい味に期待している自分がいる。

チェーン店じゃない店ばっかり選んでるもんね。

今年も1回くらいは、思わず「うまっ!」って言っちゃう味に出会いたいね。